北海道・函館の観光名所「五稜郭」
江戸幕府が鎖国を終了した際に設けられた行政の中核として知られており、その鎖国となったペリー来航の背景にはアメリカが脅威的な存在であったことは知る人ぞ知る歴史的背景でしょうか。
しかし、五稜郭が建てられたのはロシアを脅威としていたからなのです。
今回は五稜郭が建てられた理由や、なぜ星形をしているのかといった五稜郭の歴史について解説してまいります。
この記事でわかること
- 五稜郭が建てられたのは鎖国終了がきっかけ
- 五稜郭が建てられたのは、日本をロシアから守るため?!
- 五稜郭を建てたのは天才的な軍人さん
- なぜ五稜郭は星形なのか
五稜郭はなぜ作られたの?

五稜郭が作られた目的、それは鎖国を終えた日本が箱館港を開港したことで、ロシアから政治の中核部分を守る必要があったからです。
より詳しく解説するため、舞台となった江戸時代末期の日本の歴史を一緒にお勉強しましょう!
CONTENTS
- ペリー来航により、鎖国を終えた江戸時代末期の日本
- アメリカはなぜ日本の鎖国を終わらせたかったのか?
- 追い打ちをかけるかの脅威「ロシアの南下」
ペリー来航により、鎖国を終えた江戸時代末期の日本

時は1639年(寛永16年)の徳川幕府の時代、ヨーロッパから伝わったキリスト教が日本にとって悪影響とし、日本は200年以上にわたって外交を禁止します。
これが俗に言う鎖国(さこく)です。

つまり、国単位のひきこもり

たぶん、世界最大スケールの引きこもりなんよ
当時の日本は戦の国。
キリスト教の「人類は皆平等」といった愛に溢れた考えなど無用であり、それ以前にも1587年(天正15年)にも豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発令され、キリスト教の神父を追放するといった殺伐とした制裁が繰り返されてきていたのです。
しかし、1854年(嘉永7年)のペリー来航をきっかけに鎖国は終わりを告げます。
理由は簡単。当時の日本にとって「ペリー(写真の人)は怖かった」からです。
軍人ペリーが乗ってきたのは、通称「黒船」と呼ばれる戦艦。
それも、蒸気船と呼ばれる最新式のシステムを搭載し破壊力抜群の大砲まで装備していたものですから、さすがにビビって手も足も出ません。
戦の国だったからこそ、強いものには従ったと言うことですね。
アメリカはなぜ日本の鎖国を終わらせたかったのか?

当時、アメリカは中国と貿易をしていました。
しかし、パソコンやスマホも無ければネットもない時代、国同士のやりとりともなると頻繁に航海をすることになってしまいます。
そこでアメリカは貿易のための航海を快適にするため、日本を休憩所として使える港にしたかったのです。
休憩所にするには、もちろん「鎖国なんかやめなさい!」というだけではいけません。
ちゃんと「ここで私たちを休憩させてね」とおねだりする必要があります。

アメリカさん、ちょっと図々しいんよ

おねだりするにも、アメリカらしくスケールどでかいんよ
その、ちょっと図々しいアメリカのおねだりが「日米和親条約」と言うものです。
日米和親条約は1854年、江戸幕府とアメリカ合衆国の友好の証として結ばれました。
が、実際はアメリカにとって一方的に都合の良い内容でした。
どう言う内容かと言うと
- 日本は下田と箱館をアメリカの玄関にすること
- あと、来た時は食料とか石炭とか売ってね(金銀貨払いね)
- それと、船とか乗組員さんになんかあった時は助けてね
- それとそれと、もしかしたら下田に領事を置くかもしれんから、よろしく
- とにかく!日本は一生アメリカ推しでいること!
という、日本にとっては負担の大きいアメリカ受け入れの条件となりました。
不公平ですが、断ればどでかい大砲で「ちゅどーん」です。
また、領事というのは日本に住むアメリカ人達をお世話をする人のことで、外交官ともいいます。
この「領事を置く」という条件のため、日米修好通商条約という更に不公平な条約を結ばされ、この後で日本経済はとんでもないことになってしまうのです。
追い打ちをかけるかの脅威「ロシアの南下」

アメリカも結構なワガママ言う困ったちゃんでしたが、それ以上にこまったちゃんなのがロシアです。
箱館を開港してしまったため、近い位置にあるロシアが攻め込みやすくなってしまったのです。
実はペリーが黒船で押しかけてくる前から、日本は「なんかロシア、やべーんじゃないの?」と気づいていました。
特に警戒していたのが奥羽諸藩という人たち。
蝦夷地警備という、命懸けのロシア警戒活動を行っていた人たちです。

アメリカ相手も大変なのに、踏んだり蹴ったりなんよ

実は更に、イギリスとも和新条約みたいな条約を結ばされてたんよ;;
鎖国を終えていよいよヤバい!と判断した江戸幕府はロシアから身を守るため、1802年に防衛基地となる「奉行所」を設けます。
しかし、何かあった時に応戦するにはポジションがイマイチであったため、1864年に改めて防衛基地をポジショニングします。
それが「五稜郭」です。
五稜郭は誰が作ったの?

日本をロシアから守るための秘密基地「五稜郭」をデザインしたのは武田斐三郎さんという人です。
武田斐三郎さんは医学もできて西洋文化にも詳しい軍人さん!
そんな天才的な軍人さんだけあって、星型の五稜郭をデザインした武田斐三郎さんはどんな人なのか、解説します。
CONTENTS
- もう一人のレオナルド・ダヴィンチ
- 蘭学からヒントを得てデザインされた五稜郭
もう一人のレオナルド・ダヴィンチ

武田斐三郎さんはかつて、陸軍士官学校で兵隊さんを育てるくらい最強の軍人さんだったのですが、それ以前に多才であったことで有名です。
西洋文化のことについての知識が豊富で、特に戦艦やお城、大砲の作り方に詳しい方でした。
西洋の文化のことを「蘭学」といい、武田斐三郎さんによる五稜郭のアイディアはこの蘭学がベースとなっていたため、武田斐三郎さんは蘭学者とも言われています。

天才的な蘭学者🎵

五稜郭が星型だけになんよ
蘭学からヒントを得てデザインされた五稜郭

主に五稜郭をデザインしたのは武田斐三郎さんでしたが、堀利煕さん及び竹内保徳さんという重臣(いわゆる国のお偉いさん)からの下請け案件でした。

五稜郭のスケッチ描いて幕府に持ち込んで「こんなの、どーすか?」ぢゃないんやねぇ〜

アイドルの売り込みぢゃないんやから・・・
武田斐三郎さんは西洋文化に詳しい軍人さんですが、武田斐三郎さんには2人の先生がいました。
一人は西洋文化を教わった緒方洪庵さんというお医者さん
もう一人は兵学(軍人さんの必勝法)を教わった佐久間象山さんという思想家です。
武田斐三郎さんはこの二人から教わったことを五稜郭のデザインにも活かし、更にダメ押しで設置した弁天砲台も設計します。
五稜郭が星型の理由は?

さて、五稜郭が星型の地形なのは、
死角ゼロ!
という、防衛基地として天才的だった理由でもあるのです。

ヘンテコな形だと、逆に死角ありそお

実はそおでもないんよ

例えば、図のように円状の地形ですと、どうしても見えない部分というのは出てきてしまいます。
この死角に敵が潜伏していたら、結構あぶないですね。

しかし、星形の地形だとどうでしょう?
星の角の折れ曲がった形状を利用して、死角を作らないようにできるんです。
武田斐三郎さんも西洋のお城を参考にして、五稜郭をこの星形デザインにしたのです。
まとめ

では、今回のまとめに入りましょう。
- 五稜郭が建てられたのは、ロシア南下から江戸幕府を守るため
- 鎖国終了後、函館開港により無防備となり、ロシアが脅威であった
- 五稜郭をデザインしたのは蘭学者・武田斐三郎
- 五稜郭が星形なのは、死角をゼロにするため
ときに素晴らしいと言われる製品などには、奇抜なアイディアが必要とされることがあります。
スマートフォンが「iPhone」として初めて日本で発表された時も、タッチ式ということに戸惑った方も多いはず。
五稜郭の星形も建物の地形としてはユニークですが、それ故に理にかなった利点を持ち合わせているあたり、天才的だなと思いました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。