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【2023】宮崎勤一族の末路まとめ〜父母や妹の現在が悲惨すぎる

宮崎勤 一族の末路 まとめ 人物

 

【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件】

1988年から1989年、時代が昭和から平成に変わる転換期に起きた凄惨な事件を皆さんはご存知でしょうか?

犯人の宮崎勤は4人の幼女を誘拐後残虐に殺害し、その後

  • 遺体を凌辱し、その様子を動画で撮影
  • 遺体をバラバラに切断して遺棄
  • 殺害した遺族の遺骨を遺族の自宅に送り付ける
  • マスコミに犯行声明を送って警察を挑発

と、過去類を見ない異常過ぎるこの事件は、当時の日本全体を震撼させました。

犯人の宮崎勤は1989年に逮捕され、2006年に裁判で死刑が確定。

2年後の2008年に死刑が執行されています。

今回は、宮崎勤に関して

  • 宮崎勤の一族のその後
  • 宮崎勤の死刑執行までの様子
  • 宮崎勤の起こした事件の影響

の点をまとめてみました。

 

宮崎勤一族の末路

宮崎勤 一族 末路 まとめ

宮崎勤の家族には、両親と2人の妹がいました

当時の新聞では宮崎勤の逮捕後実家の住所も記載されており、実家で生活する宮崎勤の家族の元には「お前らも〇ね」「〇す」などの脅迫や嫌がらせの手紙が連日届くようになり、家族は周囲から責められ続けました。

事件から1年後には実家があった場所は更地になっており、宮崎一家は引っ越しています。

元々宮崎家は曽祖父が村会議員、祖父が町会議員で地元の名士といえる家系で、父親も「秋川新聞」という新聞会社を経営する経営者でした。

裕福な環境で生活をしていた宮崎家ですが、事件後それぞれどのような末路をたどったのか、詳しく説明していきます。

宮崎勤一族の末路①父親

宮崎勤 一族 末路 まとめ

宮崎勤の父親は、事件後自らその命を絶ってしまっています

父親は前述の通り、「秋川新聞」という新聞会社を経営していましたが、事件後会社の事業を終了しております。

その後先祖代々の土地を全て売却し、売却で得たお金を遺族に送金するよう手配をしてから自身は京都青梅市の多摩川にかかる30メートルの高さのある神代橋から身を投げてしまいました。

生前、父親はインタビューで「家族である私たちが責められるのはわかるが、直接関係のない一族までが非難され仕事を失うことになったことに悩んでいる」とコメントしていました。

宮崎勤一族の末路②母親

宮崎勤 一族 末路 まとめ

宮崎勤の母親の消息は現在明らかにされていません。

元々宮崎勤に対しての愛情は薄く、宮崎勤の幼少時は祖父と知的障害を持つ30代の男性を住み込みで雇って子守をさせていました。

2008年に宮崎勤の死刑が執行された後は、家族で唯一遺体と対面しています

その際、遺体の処理をどうするか尋ねられた母親は「拘置所にお任せします」と答えその場を後にしています。

宮崎勤一族の末路③妹(長女)

宮崎勤 一族 末路 まとめ

宮崎勤の妹(長女)の消息は現在明らかになっておりません

事件後、会社員だった妹は会社での風当たりが強くなり会社を退職しています

それだけでなく、当時結婚も決まっておりましたがその話は無くなり、婚約者とも婚約破棄に追い込まれました

宮崎勤一族の末路④妹(次女)

宮崎勤 一族 末路 まとめ

宮崎勤の妹(次女)も消息は現在明らかになっておりません

事件当時は学生で、看護学校に通っていました。

しかし、事件後は姉同様世間の目に耐え切れず、学校を自ら辞めています

宮崎勤一族の末路⑤その他一族

宮崎勤 一族 末路 まとめ
  • 宮崎勤の父親の弟(次男)→5つの会社の役員だったが事件後全ての職を辞し、会社も退職
  • 宮崎勤の父親の弟(3男)事件後離婚。2人の子供は妻に託して旧姓を名乗らせる。
  • 宮崎勤の母親の弟の子供(1人目)→警察官だったが事件後退職
  • 宮崎勤の母親の弟の子供(2人目)→高校教師だったが事件後退職

このように、宮崎勤の一族は家族だけにとどまらず、皆事件後に会社を退職に追い込まれたり、離婚したりと悲惨な末路をたどっていました。

犯罪者の一族が皆同罪のような扱いを受けるのは、果たして正しいことなのでしょうか。

一族の方に対しては、もっと配慮があって良かったのではと思ってしまいます。

宮崎勤の死刑執行時の様子

宮崎勤 一族 末路 まとめ

逮捕後、宮崎勤の量刑を判断する際の最大の焦点は彼が精神疾患を患っていたかどうかでした。

1992年に行われた3人の鑑定士による精神鑑定では、1人が統合失調症、2人が解離性同一性障害(多重人格)と診断しています。

公判中も、宮崎勤は

  • 「犯行は覚めない夢の中でやった」
  • 「ネズミ人間が現れた」
  • 「祖父を復活させる儀式だった」
  • 「少女の遺体を焼いて食べた」

等の不可解な発言をしていました。

それに対し、取り調べ時はそのような発言をしていなかったことから検察側は宮崎勤の不可解な言動を詐病として捉えていました。

結果2006年に死刑判決が出てから宮崎勤は独房内で生活することになるのですが、そこで宮崎勤は抗精神病薬の投薬治療を受けていることが分かっています。

宮崎勤が出版社にあてた手紙が現存しており、その中に

2007年4月第4月曜日に診察を受けたのですが、その日の夜(20時頃)から、それまでの投薬(のみ薬=こな薬)の分量より薬の分量が少なくなった。その後、普段私に聴こえてくる幻聴の主たち、つまり、私・宮崎勤を(私のおじいさんが倒れた月の1989年5月から)殺そうとしている得体の知れない(こわい)力を持っている者たちがその殺害方法を話し合っているのだが、その幻聴の主たちの人数が、それまでは10人ぐらいだったのが、今回は15人ぐらいに増えた。

引用元:yahoo!ニュース

という記載があることから、宮崎勤は何かしらの精神疾患を患っていましたが、治療は十分ではなく徐々に症状は悪化していたと思われます。

そのような状況下でしたが、独房内では絵を描いたりビデオを見ることが許されており、宮崎勤は主にスタジオジブリ作品を好んで見ていました。

元々宮崎勤は自宅で引きこもり生活をしており、漫画やアニメが大好きないわゆるオタクといわれる存在でした。

宮崎勤が逮捕後家宅捜索が行われた際は、自宅から6,000本近くのビデオテープが発見されております。

そんな宮崎勤にとって、独房内での生活は案外居心地が良かったのかもしれません。

しかし、そんな宮崎勤にも死刑執行の瞬間はやってきます。

当初は絞首刑に対する恐怖を訴えていましたが、死刑執行の際は、宮崎勤は冷静に執行を受け入れたと言われています。

死刑判決後、実際に死刑が執行されるまでの平均は約7年~10年といわれていますが、宮崎勤の死刑執行は判決から2年後と異例の早さで執行されました。

宮崎勤の最期の言葉

宮崎勤 一族 末路 まとめ

死刑執行の朝、宮崎勤は「あのビデオ、まだ途中だったのにな・・・」という言葉を残しています。

最後まで、被害者、遺族、そして自分の身内に対しても反省の感情はありませんでした

宮崎勤事件のその後

宮崎勤 一族 末路 まとめ

事件後、メディアが宮崎勤を「オタク・ロリコン・ホラーマニア」と連日報じたため、これらの嗜好を持つ人は強い偏見を受けることになります。

更に、漫画やアニメが子供に悪影響を与えるという風潮が高まり「有害コミック排除運動」がマスコミやPTAを中心に活発になりました。

ホラー映画も「オタク=社会不適合者」に悪い影響を与えるとし、テレビで一時期放送が自粛されます

このように、宮崎勤の犯罪は日本人に【恐怖心】を植え付けることとなり、それによって関係ない人たちへの偏見が強まり、一部の嗜好を排除する動きに発展していきました。

まとめ|宮崎勤一族の末路まとめ

宮崎勤 一族 末路 まとめ

最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の内容をまとめると、

  • 宮崎勤の一族は皆悲惨な末路をたどっている
  • 宮崎勤は死刑執行の最期の瞬間まで反省の感情は無かった
  • 宮崎勤の事件は社会問題に発展し、日本社会全体に影響を与えた

ということになります。

宮崎勤自身は世間から遮断された独房という空間の中で時間を過ごせていたのに対し、家族、そして一族は宮崎勤の代わりに避難を受け続ける

更に同じ嗜好を持つという理由だけで強い偏見を受けた人も大勢いる

なんとも後味の悪い結果となりました。

愛する我が子を失った遺族の無念を考えると、本当に居た堪れない気持ちになります。

一方で、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないですが、血縁関係があるというだけでその後の人生を犯罪者の如く否定された宮崎勤の一族の方もさぞ無念だったと思います。

犯罪は加害者・被害者だけでなく、周りの多くの人間を不幸にする最低の行為です!

改めてこのように感じました。

今後第2、第3の宮崎勤のような人間が世に出てこないことを切に願っています。

宮崎勤が埼玉県飯能市で起こした事件についてはこちらの記事でまとめています。


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