今年8月2日の「ヤクルト VS 中日戦」にて、NPB史上初となる5打席連続本塁打を記録し、「村神様」とまで呼ばれるほどになった村上宗隆選手。
最近では「そろそろメジャー移籍か?!」とまで噂されており今や野球界は「村上宗隆選手に釘付け」といっても過言ではありません。
さて、そんな村上宗隆選手ですが、高校時代はどんな野球生活を送られていたのでしょうか。
今回は村上宗隆選手の高校時代の実績や、当時指導をしていた監督とのエピソードに迫ります。
この記事でわかること
- 村上宗隆選手が九州学院へ入学するまでの経緯
- 村上宗隆選手の高校時代の成績
- 村上宗隆選手の恩師「坂井監督」がどのような指導をしたのか
- 村上宗隆選手が、どのようにして成長していったのか
村上宗隆は高校時代から注目の選手だった?!

22歳という若さで、驚くべき実績を残している村上宗隆選手ですが、高校時代からバッティングセンスなどは注目されており、「肥後のベーブ・ルース」と呼ばれていたそうです。
また体格も高校生にしてはしっかりした方であり、身体的にも野球選手向きだったとのことです。
☆参考 村上宗隆選手のプロフィール
- 身長:188cm
- 体重:97kg
- 生年月日:2000年2月2日
- 出身:熊本
お父様が高校時代に野球をされていたことより、村上宗隆選手自身も幼少の頃から野球に関心があったようで、中学時代から「熊本東リトルシニア」というチームに所属し、本格的に野球を始めたそうです。
その時から天才的な才能を発揮しており、そのまま強豪校の九州学院高校へと進学し、なんと1年でレギュラーになります。
村上宗隆は4番バッターなのに注目されていなかった!?

しかし、当時4番バッターであるにも関わらず、村上宗隆選手はさほど注目されることはありませんでした。
というのも、同級生の清宮幸太郎選手の盛り上がりにより、世間はすっかり「清宮フィーバー」だったからです。
清宮選手も、1年生にして甲子園に出場、そこでホームランも放つといった天才的な才能を見せつけていました。
また村上宗隆選手は1年の時に遊学館と対戦していますが、サードゴロ、サードゴロ、センターフライ、セカンドゴロで4打席凡退、さらに守備ではエラーとなるなど、あまりパッとした結果を出せず、試合は3-5で負けてしまいます。
研究熱心で努力家の村上宗隆

それでも村上宗隆選手は、この後で「肥後のベーブ・ルース」そして清宮幸太郎、中村奨成、安田尚憲と肩を並べる「高校BIG4」として名を挙げることになるのです。
当時から野球選手の花形であり、今でこそ注目しかない村上宗隆選手ですが、やはり誰にでもライバルというのは存在しうるものなのですね。
高校時代は非常に練習や野球の研究に打ち込む選手だったそうで、当時九州学院のエースであった田尻裕昌選手とライバル校である秀岳館の相手打線をかなり研究されたとのこと。
やはり才能だけではなく、野球に対する思いも強い方なのだとわかりますね。
村上宗隆の高校時代の監督は?

村上宗隆選手を高校時代に指導していたのは坂井宏安(さかいひろやす)監督です。
☆参考 坂井宏安監督のプロフィール
- 生年月日:1957年5月14日
- 年齢:65歳
- 出身:熊本
- 出身高校:九州学院
- 出身大学:日本体育大学
坂井宏安監督は、1979年に日本体育大学を卒業後、千葉県立銚子商業高校のコーチに就任しました。
1985年からは、母校である九州学院の監督に就任しますが一度野球部から離れ、1995年に再び九州学院の監督に就任しました。
それから25年後の2020年に監督を勇退し、現在は動向のいち教員として野球部の活動を見守っています。
監督の意外な判断

村上宗隆選手が「肥後のベーブ・ルース」そして清宮幸太郎、中村奨成、安田尚憲と肩を並べる「高校BIG4」として名を挙げることになったのは、当時の指導者であり村上宗隆選手の恩師である坂井宏安監督の「ある判断」から始まります。
ここで、村上宗隆選手をここまで強い選手に育てた、恩師「坂井監督」についてお話ししていきます。
坂井監督は村上宗隆選手に対し、ある「意外な判断」を下します。
それは、村上選手を「捕手に転向する」という判断です。
例の4打数無安打で敗北した試合後、坂井監督は村上選手に、保守を薦めます。
これについて、坂井監督は、
「中学時代からやっていたものもありますが、彼は記憶力がある。捕手のリードをやらせたら勉強になると思った。甲子園に出るチームはやっぱり捕手がいい。いい捕手の元なら投手もよくなるし、一緒に伸びていく。また、野手のみんなを見られる。監督もベンチから指示はするが、最終的には自分たちでやらないといけない。捕手も、ここは前進だ、ビッグイニングにならないようにしようとか、捕手なら即座に分かる。こっちの意をくむ力が村上にはある。そういうことができると思った。」
引用元:高校野球ドットコム
という考えを持たれていたとのこと。
ただ「才能がある」といっても、選手それぞれ特性は違います。
坂井監督は村上選手を、ただ「ハイスペック選手」としてみていたのではなく、「どうスペックが高いのか」まできちんと分析されていたことがわかります。
その上で、「どうすれば村上選手の強さを生かす方向で、成長させられるのか」という課題をみつけ、それに対して「判断力を養う必要がある、それに最適なポジションは捕手である」という、的確な判断まで下します。
さらに「甲子園に出るチームはやっぱり捕手がいい。」という裏付けまであったのも、名門高校の監督らしい、力強い意見だと言えます。
「固定観念に囚われるな」
「柔軟な考え方が大事だ」
これは私たちが日常生活でもしばし言われることですし、私自身、こうした指摘を受けたことは何度かあります。
必要かつ意外性のある判断や思考というのは、大抵の場合は誰かの助けがないと気づくことすらできないでしょう。
なぜなら「意外」だからです。
そして意外であるが故、それは突破口でもあり、そこから爆発的な全身があったりもします。
現にこの後、村上選手は35本以上のホームランを量産し、通算52本塁打のスラッガーへと成長、その潜在能力は高く評価され、ヤクルトスワローズに入団します。
村上宗隆の高校時代の成績は?

最初にお話しした通り、高校時代の村上選手が注目されるようになったのは「少し時間が経過してから」のお話になります。
石川代表の遊学館との対戦では敗退し、2年のときに熊本大会決勝でも2-13で秀岳館に敗北しています。
野球への意識が高い村上宗隆

このように、試合の成績だけをみるとパッとしませんが、当時の村上宗隆選手の野球に取り組む姿勢を見ると、「野球への意識の高さ」が分かります。
当時の指導者、酒井監督は当時の村上宗隆選手について「よく練習する選手だった」と話しています。 それも、ただ練習のではなく、
「自分のためになる……というか、これはいい練習だと思ったら、トコトンやるんですね。」
引用元:Number Web
とのこと。
あくまで「試合に勝つ」ためにどうするか?を考えた上で、そのために必要なことをする、趣旨を踏まえた上で自身を鍛えていたあたり、現在の村上選手のレベルの高さにも通ずるものがあるかと思います。
警戒されていた村上宗隆

また当時の試合について、坂井監督はこうも語っています。
「村上の打席は、半分ぐらいが四球だったんですよ。警戒されて怖がられて、公式戦はほとんど勝負してもらえない。練習試合でもチャンスに村上だと、ほとんど四球でした。」
引用元:Number Web
さらに、坂井監督はこう続けます。
「バッティングに自信のあるヤツって、そういう時にボールとわかっていても打ちにいったりするじゃないですか。村上にはそれがなかった。自分のために打ちたい、打ちたいじゃない。ちゃんと四球もらって、チームの勝ちのためにチャンスを広げる。ホームランやアベレージより、打点のほうを大事にしてるようなヤツでしたから、今シーズン(2019年)の結果にも、決して満足してなかったですね」
引用元:Number Web
なるほど。四球というイレギュラーでも、真っ当な勝負をする。これは「試合に勝つ」という意識が高くないと出来ない判断ではないでしょうか。 「四球ばかりもらっていた」というのも、相手が村上選手の「強さを認めていた」証拠とも言えます。
まとめ|村上宗隆が高校時代「肥後のベーブルース」と呼ばれ注目されたのは監督の意外な判断から

では、今回のまとめに入りましょう。
- 村上選手は高校時代から潜在能力が高かった
- 能力が高いにも関わらず、最初から注目されていたわけではなかった
- 村上選手は「捕手」の経験を得て、通算52本塁打のスラッガーに成長した
- 試合では四球であっても、勝つために打ちに向かった
今回、村上選手について調べてみて、「強さ」というのは、決してスキルだけで成り立つものではない、それを活かす精神や、活かすために「正しく鍛える」という必要があるんだなと、私自身もとても勉強になりました。
それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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